2010/06/27

alltag










2010/06/09

Markthalle

足しげく通うカフェやバーの条件は

1)自宅に近い
2)友人宅に近い
3)よく行くギャラリーや映画館に近い

と、やはり実用性の高さが一番大事。

Charlottenburg, Schöneberg, Krenzberg (So36), Schöneberg, Kreuzberg (SO33), Prenzlauerberg, Friedrichshainと引っ越しを繰り返してきたが、それでもその都度いいカフェに巡り会えるのがベルリンの良い所だろうか。安心して入れるカフェがそこかしこにあるのもベルリンに慣れ親しんできた証拠、といえる...だろうか?

約束まで時間があったので、近所に住んでいたときのお気に入り、Bateauへ久しぶりに足を運んだ。




6年ほど前発砲事件があったときは、随分長い間窓ガラスにヒビが入ったままで、それを見るたび、Ehrenmord、いわゆる名誉の為の殺人という事件背景に、色々と思うところがあった。Gegen die Wandで賞を取り随分と顔を知られた後も、いつも通りこのカフェへふらりと姿を見せては相席になった人たちと世間話に花を咲かせているBirol Ünelを、何度も目にした記憶もある。ノートの切れ端に書いていた落書きに目を留めた向かい側のドイツ人が、そのタッチで私に似顔絵を描いてくれない?と訊ねてきたこともあったし、「5年我慢したら、この街がキミのふるさとになれるかどうか、わかるよ」と語ったベネズエラ人と知り合ったのもここだった。

カフェはエスプレッソを飲むだけの場所ではないと、ここへ来るたび、たわいもない記憶が生き生きと浮かんでは消えるのを垣間見ながら思う。



その後は待ち合わせていたWeltrestaurant Markthalleへ。

「どこのSchnitzelがベルリン一か」は友人達と食事について話す時、最も白熱するテーマの一つだが、私はMarkthalle派。Schnitzel&Jägersoßeには大きなサラダがついて11ユーロ。


薄くしっかり焼き上がった衣はしっかりと油が切ってあり、キノコ入りのソースで食べてもまったくもたれず、揚げ物はしつこいという私の先入観を覆してくれた。


Schnitzelだけでなく他の料理もドイツ料理といいながら、軽く優しい味。上はラムのきくごぼう、セージニョッキ添え。下は牛ステーキとシュペッツレ。


大きなビヤホールのような空間は得てして駅の大衆食堂といった感覚を与えがちで、ベルリンではそれだけで敬遠するドイツ人も多いが、常連客とサービスを含めたこのレストランの持つ雰囲気はそれでも充分居心地のいい空間を演出してくれる。

TresorのオーナーであるDimitri Hegemannがこのどこか「ドイツ的」伝統を感じさせるレストランの共同経営者であるのがまた面白い。「新しいTresorは、古き良きベルリンテクノの伝統をもつ古いTresorの規模を変えその場を移しただけのような、博物館的な違和感を与える」と書いたのはTobias Rappだが、それがこのレストランにもあてはまるような気がするのはなぜだろう。

内装の何もかもが白く、一見"extravanagnt"だが居心地のいいFriedrichshainのSchneeweissを経営するのは伝説的なゲイパーティーのオーガナイザーで、BerghainやWatergateがビジネスディナーの定番とするのと好対照に、このレストランは新しいTresorが今抱える行き詰まりが何に起因するのか、それを象徴している様にも思えるのだ。



Weltrestaurant Markthalle
Pücklerstr. 34 10997 Berlin
Open: 10am~

Mohn

5日ほど前から夏が始まり、ようやく、といった態で冬物のコートをしまい込んだ。

暖かくなってしまえば早いもので、3週間前から始めたジョギングの道程にある室内プールとコンサートホールの屋上に芝を植え込んだ敷地は、いまや夏日を余す所無く浴び身の丈ほどに成長した雑草で覆い尽くされている。

ポピーやマーガレット、ラベンダーセージやアザミの咲き誇る、屋上へと続く傾斜から見上げる光溢れる風景は、昔見たルノワールの絵画を思い起こさせ息があがる苦しさも忘れ見入るのが常だ。

ところが昨日今日と今やベルリンのどこの公園からも聞こえてくる芝刈り機の轟音、 昨日の明け方からはここの敷地でも聞こえ始め、雄々しく伸び上がった野生の草花、今朝のジョギングを始めた頃にはすでに半分以上が姿を消していた。

日差しを照り返し咲き誇る野の花の美しさは生けられたものと比べようも無いのだけれど、このまま手折られてゴミ袋に集められてしまうのも忍びない、というよりも先ず自分がまだ見ていたい、その欲求を堪えきれず摘んだ花々。




小さな花束を握りしめて家路へと走る姿は、 道路工事中の男性には冷やかしの対照にしかならないが、仕事へと向かうスーツ姿の年配女性は、まるで共犯者のような含み笑いと共に、穏やかな眼差しを向けてくれる。




子供の頃は屈託なく摘めていた野生の花へ、いつしか手折る罪悪感に戸惑って、手を伸ばせなくなったのはいつ頃だろう。横柄な芝刈り機に憤慨するのはやましさに対する単なる口実で、本当のところはその必要性も充分分かっているのである。